本年10月7日、日本弁護士連合会は人権擁護大会で上記宣言を賛成多数で採決し、今後死刑廃止に向けて取り組んでいくとの決意を表明した。
http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/civil_liberties/data/2016_1007_0...
会場では賛成派、反対派から多様な意見が熱く交わされた。死刑廃止をめぐっては、会内でも多様な意見がある。また、FNNの世論調査では死刑存続派が7割を超えている。
私は悩みつつ、賛成票を投じた。
私の娘が8歳の時、同じ歳の女の子が通学途上でいきなり若い男性に刺身包丁で刺殺されるとう事件が起こった。その事件を新聞で読んでまず思ったのは、『被害者が私の娘なら、相手も殺してやる。許さない』だった。多くの親は同じように考えるのではないだろうか。その後知人の紹介で、被害者のお母さんから相談を受けることになった。被害者は一人っ子の母子家庭で、お母さんはその子の成長だけを楽しみにしていた。
被害者の自宅に行き、仏前に手を合わせた後、打ち合わせをするのだが、お母さんは事件を思い出し、相手を殺してやりたい、死刑にしてほしいと号泣、その気持ちが痛いほどわかるこちらも涙が止まらず、お互い涙、涙の打ち合わせが続いた。
結局、加害者は心神喪失状態と言うことで不起訴。まだ、犯罪被害者の権利など言われてもいない時代だったが、被害者に対する検察官の誠意ある説明と配慮はありがたかった。
このような経験から、理想論としての死刑廃止には軽々に賛成とは言えなかった。人権大会の会場内で死刑廃止への反対派の方々は、犯罪被害者の側に立って活動されている方が多かった。
一方で、その後私は、誤ったDNA鑑定で無罪が明らかとなった足利事件の菅家さんをはじめとする冤罪被害者の方々と接する機会があった。菅家さんは無期懲役で死刑判決ではなかったから長い闘いの後冤罪を晴らすことができた。しかし、心底恐ろしいと思ったのは、足利事件で検察庁がDNA事件の再鑑定を認めた同じ時期に、同じDNA鑑定で死刑判決を受けた飯塚事件の死刑執行がなされたことだった。同じような時期に、菅家さんの再審に向けた動きの中で死刑執行の決済が行われていたことだ。「冤罪で死刑執行になった人が何人いるのか、ほとんどいない」という説も聞くが、たとえ一人であっても、それは仕方のないことと片付けられるものではない。それが、まず死刑制度に疑問を持つようになったきっかけだった。
私たちはあまりに死刑の実態について無知である。絞首刑だということはわかっている。私は、修習生時代に刑場を見たことがある(最近はないようだが)し、執行確認の立合検察官、誰がスイッチを入れたかわからないようにとの配慮からの複数の執行刑務官からのお話をかいま聞いたことはある。それがだれであれ人を殺すということはやはり残虐だ。絞首刑は他の執行方法に比べて残虐でないとは到底言い切れない。
死刑は、何のためにあるのだろう。被害者の応報感情を国家が代理するのか。人権擁護大会の議論の中で、「遺族が望むのは極刑だ。今は死刑が極刑なので死刑を望むのだ。終身刑が極刑なら終身刑を望む』と言う言葉は説得的だった。あるいは死刑は矯正不能な危険な人物の社会からの排斥なのか。それなら死刑以外の方法はないのか。
私は、あれこれと思いだしながら、被害者の応報感情がもっともなものと理解できる、しかし、国家制度として死刑制度に問題はないのかと、悩みつつ迷いつつ死刑廃止の宣言に賛成した。
諸外国には、死刑廃止を実現した国、廃止に向かいつつある国、制度はあるが執行がない国が数多くある。もっと、議論が必要だし、もっと実態を知ることが必要だ。
日弁連が廃止の宣言をしたからと言ってすぐさまそれが実現されるものではないことは十分認識しつつ、今後日弁連が廃止に向けて取り組んでいくという姿勢への賛成である。